投稿者: TG Court

  • アメリカの砂漠を疾走した日本の最先端鉄道技術 — 小田和裕氏の回想でたどる、フリーゲージトレイン米国試験走行の軌跡

    アメリカの砂漠を疾走した日本の最先端鉄道技術 — 小田和裕氏の回想でたどる、フリーゲージトレイン米国試験走行の軌跡

    コロラド州プエブロで高速試験走行中のフリーゲージトレイン―一般が立ち入れない試験施設だけあって、写真は非常に少ない
    著作権情報: USDOT FRA – Public Domain

    日本の鉄道技術開発史のなかでも、フリーゲージトレイン (Gauge Change Train – GCT) は特異な存在である。軌間の異なる新幹線と在来線の直通を可能にするという発想は大きな期待を集めたが、その実現には、台車や補助装置などだけでなく、車輪や車軸、そしてモーターといった鉄道車両の安全を根幹から左右しかねない重要な部品の開発検証という課題があり、従来の鉄道技術のように国内だけでは検証しきれない未知の要素が大きかった。

    その打開策として、東京都国立市に本部を置く公益財団法人・鉄道総合技術研究所(通称: 鉄道総研・JR総研)は海外での走行試験という異例の試みに出た。米国連邦政府が保有するコロラド州プエブロ市郊外の試験施設「トランスポーテーション・テクノロジー・センター」(TTC)で1999年から2001年の2年間にわたって高速耐久走行試験が行われた。日本国内向けの鉄道車両、しかも最先端技術の粋を集めた試験車両が遠い異国で試験走行することは後にも先にも例のない、まさに空前絶後である。この高速耐久走行試験の裏には、公刊資料だけでは見えにくい現場の努力、試験の積み重ね、そして日米双方の技術者たちの協力があった。今回、当時この計画に深く携わった小田和裕氏に、国鉄入社から鉄道総研、そしてGCTの米国試験に至るまでの経緯と現地での経験を、メールで詳しく振り返っていただいた。

    コロラド州プエブロの位置

    はじめに

    軌間とは

    左右のレールの間隔を指す。標準軌(新幹線、関西の私鉄、戦前に建設された日本の地下鉄の一部、欧州、北米、中国など)は4フィート8.5インチ (1435mm)を指し、狭軌はそれより狭い軌間を指す。日本で最も普及している軌間は狭軌の3フィート6インチ(1067mm)で、イギリスの技術指導で新橋-横浜間に敷設された路線が植民地規格の狭軌だったため、それがスタンダードとなった形だ。狭軌は標準軌と比べ、速度向上や輸送力増強の足かせとなったため、明治末期には標準軌(1435mm)に改軌(線路や車両を異なる軌間に改造する事)する気運が高まったが、狭軌のまま全国に線路を広めようとした勢力と論争に発展し、政府内で審議されたが、改軌計画は中止になった。

    日本の狭軌鉄道網はやがて慢性的な輸送力不足に見舞われる事となったが、その抜本的な打開策として昭和初期に標準軌の高速新線、いわゆる弾丸列車計画が立案され、実際に着工した。未完成で一度放棄されたが、残された用地やトンネルは戦後に開花した標準軌新線である新幹線の礎となった。

    だが、新幹線と在来線で違う軌間を採用したことにより、直通運転が不可能となり、利用客は主要駅での乗り換えを余儀なくされた。これは既存の路線網と高速新線がシームレスに相互直通運転できる欧州や中国の高速鉄道網に比べ、日本の新幹線は柔軟で弾性的な運用が不可能となった。山形新幹線や秋田新幹線などの「ミニ新幹線」では狭軌の在来線を一部標準軌に改軌して新幹線との乗り入れを実現しているが、その代償として狭軌の在来線同士の乗り入れが制限され、運用に支障をきたしている。スペインなど海外では軌間可変の客車列車は少数存在するが、さまざまな理由で日本の事情にはそぐわず、導入は不可能だ。

    その打開策として開発が始まったのが Gauge Change Train (GCT)、いわゆる「フリーゲージトレイン」だ。特殊な足回りを装備し、狭軌の在来線でも標準軌の新幹線でも走れる高速鉄道車両を目指して開発がスタートした。

    以上はJATHO編集部による前置きであり、以下からは小田氏ご自身の回想をできる限り原文の語り口に忠実なかたちで掲載する。軽微な修正を除き、内容・ニュアンスは小田氏のご回答に基づいている。

    まず経歴から

    それではまず私の経歴と出身校から紹介を始めます。

    私は1952年生まれで、現在74歳です。1975年に東京大学工学部航空学科を卒業し、その年に国鉄に入社しました。国鉄が分割民営化されるまでの12年間に日本各地で車両保守の実務を経験しました。九州から北海道まで延べ4箇所の車両工場で機関車・電車・気動車・貨車の保守を体験しました。

    国鉄分割の結果、鉄道総研で浮上式鉄道開発に参加でき、まさに車体の軽量化や車輪走行装置の開発を担当しましたが、私が主導していたゴムタイヤのパンク検知装置の実験中にそれが原因で車両を全焼する事故を起し、浮上式開発の担当をはずれ在来線の部門に移りました。ちょうどその頃から浮上式鉄道の開発主体は徐々にJR東海に移行してゆきました。

    軌間可変電車(フリーゲージトレイン)の開発は、そのころまでに、各技術担当指導の元で既に基礎研究が進んでいました。ちょうど私が在来線に移った頃は、GCTの開発をより現実化するため、国や各JRの協力をより必要とする時期で、計画の推進を図る役目として途中から参加した次第です。フリーゲージ開発では1次車両の耐久試験をサポートするまで担当しました。その後、開発主体は鉄道総研からGCT開発組合に移り、私自身は鉄道総研に残り台湾新幹線の安全評価プロジェクトを主導することになり、GCT開発からは外れました。

    試験走行前半 – 米TransTech社製の巨大なパンタグラフが目立つ2両編成 – 走行試験のみで、軌間変更は未対応 
    著作権情報: USDOT FRA Public Domain

    なぜアメリカ、しかもコロラド州?

    GCT 試験車を米国に持ち込んで試験を行ったのは、一言で言えば『日本では出来ない実用に近いレベルの試験を実施する』ためです。一般的な鉄道車輪は、左右の鉄車輪が一本の車軸の両端に圧入で固定され、左右車輪は完全に同期して回転します。その単純な車輪が、車体の重量を支え(上下方向の荷重を制御)、レールから車輪の逸脱を防ぐ(左右方向の荷重を制御)という最もシンプルンかつ重要な装置です。駆動方式(前後方向の荷重の制御)は車軸に回転力を与えて車輪とレールの間の摩擦力で力を伝えるという方法です。

    一方当時開発中のGCT車両は、車輪が車軸に固定されず(独立車輪)左右に移動する(軌間可変)と同時に、モータがその独立車輪に直結され(車輪直結型モータ)、駆動力を直接車輪に伝える方式(直接駆動方式=DDM)でした。

    GCT車両は車輪と車軸、そしてモータという車両の安全の根幹にかかわる部位が開発対象のため、以下の試験手順を踏みました。

    1. 原理確認: 基本の開発該当部分の設計と試作

    この段階では、想定する開発要素のみ試作し、部分的に試験をします。

    GCTでは、車両の左右の車輪間隔を地上の軌間(track gauge)に対応して安全に変換できるか、そして左右独立の車輪を直接駆動する方式が問題ないか、という原理確認が第一歩です。そのため、台車部分を試作して、地上から牽引車両でGCT地上部(地上レールが狭軌から標準機へと遷移する軌道)を通過する試験を行います。

    我々が目標としたのは電車方式の車両なので動力車両(M車)で軌間可変する構造の実用化でした。でも、軌間変換中は車輪をレールから浮かせた状態で左右に移動させますので.、駆動力はレールに伝わりませんから、車両は必然的に付随車(T車)モードです。その軌間変換の原理確認は、牽引走行で試験を行います。鉄道総研の既存ループ線の端部にGCT地上部と登山鉄道のようなラック軌道を敷設し、ラック式機関車で試作台車を牽引する試験を行いました。

    先に登場したA台車
    著作権情報: 鉄道総合技術研究所 – Fair Use

    2. GCT地上部をT車、M車モードで通過確認

    車両として自力走行するには、台車だけでは走れません。GCTの機械的部分要素(1項記載の部分)だけでなく、モータ駆動システム、ブレーキ機構など車両を構成する全ての装置を製作することが必要になります。そのために、1次車を製作しました。当初は最小単位の2両編成列車です。先頭車両を背中合わせに2両連結した形態です。(その後TTCで試験中に中間車体を追加して3両編成の形態になります)。試験はGCT地上区間を自力走行ができる様に改造し、軌間変換後そのまま継続して鉄道総研の狭軌のループ線を走行する実験です。

    鉄道システムは車両だけでなく、信号システムや、レール・分岐装置などの軌道システム等多くの関連するシステムで構成されます。車両と他のシステムとの適合を確認する必要がありますが、それは鉄道総研の構内では実施できません。余談ですが、直接駆動方式のGCT車両は走行することはJR在来線上でも問題なかったのですが、信号システムの基本となる列車位置検知の面で課題がありました。車両位置検知の方式がJR各社の既存設備とは調和出来ず、鉄道システムとしては後々課題を残しました。直接駆動の改良方式のGCTを開発する要因の一つです。

    3. JR線試験走行: 車両の地上設備との調和を確認

    鉄道システムの構成要件の一つとして、車輛が他の設備との調和を確認するには、短期間でもJR線の走行が必要です。GCTでは在来線と新幹線という両方での走行試験が必要となります。

    (step1)

    まず、JR西日本の協力を得て、山陰線で夜間の時間帯を一部区間で線路閉鎖をして、在来線での走行安全性を確認しました。ここまでは鉄道総研の走行の実績から数段階の速度UPで線路条件から許容される上限速度の100km/hまで走行安全を確認しました。線路閉鎖区間の全部の踏切には人員を派遣し、事故に備えて保線や電力の社員も待機して、万全の監視体制でようやく実施できました。

    (step2)

    GCTは標準軌の新幹線区間を走行可能にするのが目標ですから、新幹線区間で250km/hの速度を安全に走行する事を証明することが必要です。でもそれには在来線以上の十分な準備が必要です。日本の交通の大動脈の営業中の設備を試験に使うには事前にもっと実績を積む必要がありました。

    この打開策として、標準軌の試験専用線があり、夜も昼も専用で試験が行える試験設備を探す必要がありました。そもそも日本には試作車両を自由に試験できる試験専用線が無く、営業線を借用しての試験には多くの制約があります。

    4. コロラド州プエブロの試験専用線(TTC)を借用

    そこで米国政府が所有するコロラド州プエブロにある試験専用線(TTC)を借用する考えが出てきました。米国の試験線を使用し速度向上試験と耐久試験を行う計画案です。

    (step3) GCT1次車の速度向上試験

    最高速度246km/hを達成しました

    (step4) GCT 1次車の走行耐久性試験です。

    約60万kmの累積走行を達成し、その間に、台車のオーバーホールを実施し、どこに車両保守の弱点が有るか、部品の異常摩耗や車両の機能低下が無いかを確認できました。

    この実績を積んでようやく日本にGCT1次試験車両を持ち帰り、新幹線区間の速度向上試験と、在来線区間の耐久走行試験に臨む準備が整った次第です。

    これも余談ですが、残念ながら新幹線区間の耐久性試験はいまだ実施できていません。

    繰り返しですが『試験専用線の無い日本では標準軌の高速走行試験と耐久試験が出来ないからです』

    アメリカ側とのやり取り

    米国で試験を開始するに当たってのアメリカ側とのやりとりに関しては以下の通りです。

    1. 連邦鉄道局(FRA)とのやりとり

    TTCの鉄道設備は連邦政府(FRA – Federal Railway Administration 米国運輸省の鉄道局)の所有する資産ですが、運営は民間会社が担当する仕組みとなっています。FRAは常駐の連絡員をTTCに置き、必要が生じれば彼がワシントンとの連絡をとってくれます。そのため、FRA本省と鉄道総研とのやり取りは、試験期間中の2年間に2回だけ、FRAの研究部門の部長にワシントンで直接状況報告をしただけです。試験準備から終了まですべて現地TTCで支障なく計画は運びました。

    1. TTCIとのやりとり

    米国は大陸国家である地理的特徴から貨物鉄道会社が全盛の鉄道王国です。そこで試験設備であるTTCの運営はアメリカ鉄道協会(AAR)という民間団体の研究部門から業務委託を受けた民間企業のTTCI(施設名称TTCの最後にIncorporation の“I”が付く民間企業)が行います。AARの会員企業から製品の試験業務を受託しています。TTCIはAARの会員企業以外からも受託を拡大することが経営方針で、試験経費を負担すれば内外問わず試験を受託するという方針でした。開かれていた時代の米国ですね。更に、GCT試験を計画した同時期に米国旅客鉄道公社のAmtrakの開発中の列車も性能確認試験をしていました。2000年にNew York~Washington D.C.間の北東回廊線で最高速度250km/hで開業した新型車“Acela” 号です。TTCIにとって旅客車の試験も貨物鉄道と同様になじみ深い業務です。

    GCTと同時期にプエブロで性能確認試験を実施していたAcela号 
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    1. TTCの下見

    GCTの耐久試験がTTCで可能か否かの最初の協議と下見を1995年9月に実施しました。日本から車両の理事1名・計画担当1名・技術担当2名(軌間変換の機械担当と車輪直結モータの電気担当各1名)の合計4人で初めてTTCを訪問しました。成田―ロサンゼルスーデンバープエブロと飛行機を徐々に小さくしながら乗り継いで行き、最後は40人乗り位の小型プロペラ機で乗り物酔いと闘いながら到着しました。試験開始以降は旅慣れてくると、デンバーからは大型ジェットの就航するコロラドスプリングスで飛行機を降りて残り1時間ほどは自動車移動というルートが定着しましたが、初めは知る由もありませんでした。ホテルもHoliday Innが優良のホテルという状況です。試験終了頃にはMarriott Hotelが開業しましたが、当初はすごい田舎に来たものだと思い知らされました。交差点の信号停止で車が2台前後して停車すると「今日は渋滞だ」とジョークが出るほどの田舎街です。

    訪問当日は、ホテルまで迎えが有ったのですが、市街地から郊外の飛行場を通り過ぎ、更にTTCへの最後の案内標識を横目に見てから一本道を延々とドライブします。初めて出迎えなく訪問する方はTTCのゲート迄の間あまりに何もない道をひたすら走るので、ほとんどの方は途中で道に迷ったと勘違いして引き返してしまうそうです。TTCの敷地は東京の山手線がすっぽり入る広さですからそうなります。驚いたことに、ゲートにはライフルを持った守衛が歩哨に立っています。連邦政府の施設では義務付けられているそうです。まだ9/11事件の前でテロ対策が厳格ではなかった時期ですが、物々しい研究施設の雰囲気でした。

    ゲートでは緊張したのですが、会議では非常に好意的な対応を受け、その時点で試験の完遂が予感できました。鉄道人は国こそ違えども、同じ雰囲気が漂っているもんだと実感します。米国人曰く、『同じ匂いがする』そうです。日本では”鉄道家族“と言い、米国では“Railway fraternity”と言って仲間意識が強いことを指します。

    技術的な内容と2年間の計画概要を説明しましたが相手も研究機関ですから非常によく話が通じました。『リスクが有るからこそ、何が起きても良い無人の荒野に実験線が有るのだと』励ましてくれるほどです。確かに開発目標のハードルは高いですが、それほどの危険な試験では無いと確信していましたが、TTCIの対応には安心を貰えました。TTCの設備は標準軌で重軸重30tに対応し、思ったより曲線がきついのですが、250km/h走行が十分可能なことはAcelaの試験で明確でした。

    当時対応してくれたTTCIの計画部門の2人は最後までGCTの試験達成に協力的でした。26年後の今ではもう皆退職しプエブロから転居していますが友人関係は続いています。

    「トランスポーテーション・テクノロジー・センター」(TTC)の全容  – GCTの走行試験の大半は赤線のRTT(Railroad Test Track – 標準軌高速周回軌道)で行われた
    著作権情報: USDOT – Public Domain
    1. GCT 専用設備の建設

    GCTが走行するだけなら高速走行線である標準軌の21.7kmの環状線をエンドレスに繰り返し周回走行すれば済むのですが、GCTは同時に軌間変換も繰り返しながら走行する必要があります。更に耐久試験の目的は単に走り続けるだけでなく、『日本の車両の定期検査のルールでGCTの性能が維持できるかを検証』するのも重要な確認事項です。GCTの軌間変換機構が複雑すぎて過剰な検査保守が必要となっては実用的ではないからです。その為に、日本の仕業検査(3日毎)・交番検査(60日毎)に相当する点検だけで、追加の保守は要らないことを実証することも目的でした。TTCも車両を解体検査(全般検査相当)できる重機械を備えた設備がありますが、その設備を3日毎に2年間継続的に借り続ける訳にはゆきません。TTCの他の業務を支障します。更にTTCに狭軌線路区間は全くありません。その為、追加設備として、『GCT専用の車両検修車庫』と『軌間変換軌道』と『その先の狭軌区間300m』を建設することにしました。土木工事を伴う大がかりなものです。設置個所の配置に2案がありました。

    A案:標準軌の周回線路に新たに分岐を追加し軌間変換軌道を経由して狭軌を周回軌道と並走する形に設置、再度軌間変換軌道を経て標準軌に戻り、もう一つの追加分岐によって周回線路に復帰するという案。

    B案:GCT専用検修設備・軌間変換軌道・狭軌をすべて周回軌道から外れた箇所に1直線で配置し、狭軌は待避線の形態に行き止まりとします。高速の周回線路には影響を与えない案です。

    TTC側と経費負担の協議に際しては、日本側の経費負担が最小となるように、『GCT試験が終了後はレールを標準軌に戻してTTCが使用できること』を見越した条件を加味して、米国側も応分の負担をしてもらえるように工夫しました。その結果B案を選択しました。周回線路には入線のための分岐以外には保守が大変で速度制限が生じる恐れのある分岐装置を追加したくないのでA案は避けたいこと。B案なら試験進行に合わせ段階的に必要な追加が出来ること(車両検査設備は初めから必要ですが、軌間変換軌道とその先の狭軌区間は試験が未知の課題で試験中断の恐れが無く安定的に行えるめどが立ってから施工)が理由です。計画通りに、安定して試験実施を確認してから、軌間変換軌道と狭軌は1年遅れで完成しました。GCT検査車庫と付属設備はJapan Rail Facilityと呼ばれました。蛇足ですが、GCT試験終了後、軌間変換軌道は情報保護のため10cm毎に刻んで切断し放棄、狭軌線路はTTCが標準軌に改軌しさらに延長され有効に使っています。現在はこの設備は“Joint Research Facility” という名称で、GCT試験の共同実施を記念した名称です。略称はJRハウスです。

    現場には「JRハウス」と呼ばれたJapan Rail Facility – その後拡張され、現在も使用されている
    米国運輸省の資料より
    1. GCT 車両検修担当者への講習

    耐久試験中は米国でも日本と同じ車両検査体制を敷くのですが、その要員を日本から常時派遣するのでは非効率です。試験確認項目によっては短期間日本から集中的に多人数の研究者を派遣します。速度向上判定や台車の分解検査などの時です。しかし、日常検査はTTCI社員に委託することとしました。そのため、TTCIの車両技術社員を日本で研修しました。現地打ち合わせでTTCIの業務、設備を数回調査し、Acelaの試験も横目で視察し、彼らの車両検修能力は充分だと判断したからです。

    最初の研修時期は、GCTの一次車が製造工場から鉄道総研に無動力回送され、鉄道総研での自力走行試験の準備をするタイミングでした。その業務は、ちょうど日本からGCT 車輌をTTCに輸送して、分解して運ばれた車体と台車を再結合し、走行可能な状況に復元する業務と類似で、米国での車両組み立ての予行演習にもなるからです。

    来日した技術者は典型的な”陽気なカウボーイ”という印象です。非常に積極的で、自ら作業に加わろうとし好奇心に満ちています。中西部の生まれ育ちで、日本には初めての渡航です。鉄道を日常生活で使うのは彼にとって初めての経験でした。米国の鉄道研究機関に勤務してはいますが、扱う対象は貨物鉄道の機関車と貨車が多く、“実生活では電車に乗ったことが無い”(最も近くの都市鉄道は自動車で3時間ほど離れたデンバーのLRTです)という典型的な米国の鉄道事情を再認識しました。米国の貨物鉄道は標準軌でコンテナを2段重ね積みの貨車であったり、自動車の製造工場から新車輸送用に作られた3階建てのワゴン車等です。大型の鉄道車両を見慣れた彼には GCTは小型で“おもちゃの様”だそうです。彼はTTCで中心になってGCT試験を支援してくれました。日本から遠く離れ何かと不足する細々とした消耗品をどこからか見繕って準備してくれたり、米国生活に慣れない日本人たちを家庭に招いて慰労してくれたり、陰ひなたの支援はとても大きなものがありました。

    引き続き、モータ一体型の軌間変換機構の台車(A台車)の後継台車として、車軸から駆動力を伝える方式の台車(B台車)を耐久試験の2年目から追加しました。そのために中間車体とB台車2セットを追加でTTCへ送り、GCT列車を2両編成から3両編成に増結しました。その機会にも、日本で台車の組み立て作業を事前学習するためTTCI技術社員の日本研修を行いました。延べ7人のTTCI車両現場技術者を研修に招きましたが、7人の日本応援団を養成したことと同じです。彼らがTTCでのGCT試験に中心となって活躍してくれたことは、試験目的達成の大きな力となりました。

    後日談ですが、試験終了後、鉄道総研社員の出張で溜まった航空会社のポイントマイルを使って最初に検修した彼を日本に招待しました。その時は業務を離れて彼と奥さんの2人で来日してもらい、鉄道旅行を満喫してもらいました。 

    いよいよ走行試験に入ります。

    Japan Rail Facility内の軌間変換装置
    著作権情報: USDOT FRA – Public Domain

    アメリカの技術や規格

    日本の車両はJIS規格に基づきますが米国の鉄道はAAR規格に基づいて作られます。日米の規格の違いは多々ありますが、その第一歩は車輪踏面の形状調整から始まります。車両を安全に走らせるには車輪とレールの形状が重要です。車輪は回転中に遠心力やカント等の何らかの力で左右方向に偏った場合には、車輪の左右直径差が変わることで車輪の偏りを戻そうとする効果(変位に対する復元力)が生じます。この効果は適切ならスムーズに曲線通過できるように働きますが、適度を外れると安定性を悪化させる逆効果も生じます。一般的に復元力が大きいと低速では良いのですが、高速では不安定に働きます。GCTは低速の在来線でも高速の新幹線でも安定な様にレール・車輪の関係が共にJIS規格の基で検討されています。一方、米国はAAR規格のレールと車輪です。そこでGCTを日本からそのままTTCに持ち込むと、JIS規格の車輪とAAR規格のレールという組み合わせになり、車両が左右に偏った場合の効果が異なってきます。そこでGCT車輪の形状をAAR規格のレールで走行しても日本のJISのレールを走行した時と等価になるように検討が必要でした。

    車輪踏面形状およびレール断面形状の例
    著作権情報: APTA – Fair Use

    『大は小を兼ねる』のか?

    日米では、車両限界や建築限界も違いますが、GCTの寸法はすべて米国規格の内包側なので問題なしです。軸重も大きく違います。米国は軸重35tでGCTは軸重13tですから、米国の許容軸重の半分ほどなのでOK です。何事も大きい米国では多くの場合、『大は小を兼ねる』という事で多くの場合問題なく日本の基準の車両のままで対応可能でした。

    但し高速の周回線路の分岐は問題でした。TTCで使用されていた単純で保守の負担が少ない分岐装置は車輪のフランジ部分が通過するための分岐器の一部にギャップがあるタイプでした。大軸重の頑丈な米国仕様の車両はそのギャップで発生する衝撃に十分耐えるので高速走行線でも単純な分岐で良かったのです。

    一方、日本のJIS車輪と米国のAAR 車輪を比較すると車輪の幅が違います。米国は重軸重に対応して日本より厚みのある車輪です。肉厚の厚い米国の車輪が通過できるように、米国の分岐器は設計されてます。そこを薄厚の日本車輪が通過すると、平たく言えばガラ隙のギャップの通過なので、車輪に与える衝撃が大きくなります。GCTは軽量でいわば華奢な車両で、設計での想定より大きな衝撃力が掛かってしまいます。そこで分岐器の先端が密着しギャップが出来ないノーズ可動型分岐(日本で高速線路に普通に使われる仕様です)を日本から持ち込み交換し、日本と同じ条件を作り出して耐久走行試験をしました。これは『大(米国規格)は小(日本規格)を兼ねなかった』話です。

    日本で生きていた米国規格

    一方日米で問題なく適合した規格もありました、入換に使用する自動連結器です。GCT車両の入換をTTCの機関車で行う場合に必要となります。電車を機関車に連結するため、両用連結器が必要です。一面は電車用の密着連結器でその裏面(180度回転側)は機関車用の自動連結器という特殊な構造です。その自動連結器は日本製と米国製で形状が同じで、そのまま日本から持ち込んで使えました。その理由は、バラバラな方式の連結器が使われていた日本の鉄道の初期段階に、将来を見越して一斉に連結器を統一した時、米国の自動連結器を統一基準にし、それ以降連綿と同じ設計が使われてきたという証です。米国鉄道との親しみを感じたケースです。

    日本の在来線で機関車・貨車に一般的に使われている自動連結器 – 実はアメリカ規格だ
    著作権情報: てぃーけーいちよん – Fair Use

     TTCIの走行安全判定基準

    走行安全判定基準は日本でも米国でも、脱線係数(車輪に負荷される横方向の力/上下方向の力)を測りNADALの式に基づく臨界数値と比較する方法で同じです。臨界数値より高い脱線係数が一定程度継続すると危険と判定します。この継続状況を日本は20ms以上の時間継続で測り、TTCIは車輪が連続3回転分以上の距離継続で判定します。ちょうど時速150km/hの時に車輪3回転分が20msとなり、ほぼ同じ安全判定基準です。ちなみに250km/hなら日本基準の20msの間に車輪が5回転することになります。

    速度向上試験は、TTCIも自社の社員の安全の担保の為に、日本の脱線係数の時間測定波形を同時に彼ら自身でモニターし、TTCIの安全基準を確認し、双方で異論無く安全と判定したうえで次の速度の試験に臨むという段取りです。

    危険物規則

    安全意識では日米で異質を感じました。化学物質の危険物規則(Hazard Material Regulations)がとても厳格で有害物質の有無表示、万が一の場合の対処法が、随所に目立つように張り出すことが義務付けられています。日本が危険物に無頓着という事ではありません。しかし、日本では生活の場で『空気と水は無償で安全は当たり前』という意識があり、普通は無自覚でいられるほど環境は安全だという譬えです。職場においても『作業の便利のためには危険物を許容しその対応として注意喚起をする』という方法が米国流で、日本では『作業に不便でも危険物自体が無い環境を作ること』に努めます。日本側の技術者は、『車両は乗客が普通に利用する道具ですから、職場においても有害物質は無いことは当然』という思い込みでした。そのため、いまさらながら、『使用する油脂やグリース、発生する摩耗粉塵が無害であることを証明せよ』と言われて驚きました。幸い、というか当然、日米で鉄道に使用する素材は殆ど共通で、日本から持ち込んだ資材は米国にも類似品が有りTTCIへの説明で安全証明は無事に対応できました。

    保安に関連するエピソード

    GCT 試験の途中でB台車を日本から輸送した話です。走行試験は2年間の限られた時間ですから、タイトな試験工程で資材もタイムリーな供給が必要でした。でも到着想定日が過ぎても荷物が到着しません。『時間通りに進む日本に比べて米国はいい加減だな』と憤慨していましたが、実は通関で止められていたことが判明しました。B台車の特殊な車軸が大砲の砲身と間違われてしまったのです。【車軸には車輪が左右に動くための加工がされていまが】、ちょうど砲身にライフルが切ってあるのと見間違えられた次第で、武器の密輸を疑われたのです。TTCIの支援を得て税関当局に説明をし、予定より遅れましたが無事到着しました。米国はいい加減ではなくsecurityには厳密なことを見直しました。

    危険な野生動物

    もう一つ安全に関して野生動物のエピソードがあります。TTCは荒野の中にあり多種の野生動物が生息しています。その中には危険なガラガラ蛇がいます。蛇は変温動物ですから周りの気温に敏感です。プエブロの真夏は炎天下では40℃近く気温が上がります。そんなときに荒野の中に有って、唯一屋根のある検修庫の中の鉄製品のレールは触るとひんやりと心地良く感じます。人間にとってもそうですから、蛇にとっても最適の避暑地となります。そこで夏場は車庫レールにガラガラヘビが気持ちよく潜んで涼んでいるいることが数回ありました。事前に現地で注意喚起は受けてましたが、床下点検していた日本人作業者を驚かせたことが数回ありました。実害はありませんでしたが。当然TTCには血清が準備されています。

    一方春に冬眠から覚めた直後のガラガラヘビも危険です。この時期、まだ活動には十分な気温が上がり切らず、彼らは体温を上昇させる必要があります。それには直射日光の当たる黒いアスファルト道路は周りの荒野より太陽光を吸収し地温が上昇するのでそこで日向ぼっこをします。一斉に冬眠から覚めたガラガラ蛇が路上にとぐろを巻いていたり、通勤自動車にひかれて死屍累々の光景が広がります。好奇心から自動車から降りると危険です。

    群れを成して生息するアンテロープ – GCTと度々衝突した
    著作権情報: Rvannatta – CC BY-SA 3.0

    危険ではないが厄介な野生動物

    アンテロープというシカに似た外観の小型のウシ科の動物が群れを成して生息します。走行試験中に群れが線路を横切るとき、先頭のリーダは車両と十分の間合いで横切り初め、群れの残りは次々と盲目的にそれに続きます。すると群れの途中でGCTと衝突する個体が出てきます。1頭だけとか複数頭だったりです。高速試験に慣れてないので群れのリーダーが間合いを誤るのです。あまり高速走行を経験してないTTCIの社員には想定出来なかった事態で事前警告はありませんでした。GCTの先頭部はFRP製なので亀裂発生や、最悪は車両の床下に巻き込んでしまい、車庫に帰り撤去清掃消毒消臭は大変です。野生動物の匂いは強烈です。そこで、ついに動物を跳ね飛ばして巻き込みを防止するカウキャッチャーを取り付けました、西部開拓時代のSLの先頭についているあれです。

    同じくアンテロープと夜間TTCに通勤する自動車が衝突することが有ります。冬の雪の降る夜道に発生します。避けようとして急ハンドルや急ブレーキ操作はかえって危険ですから、『自動車の損害は構わないので、そのまま直進し跳ね飛ばす事』を通知しました。ちなみに、軌道や道路の現場に飛散したアンテロープの残骸は、コヨーテ、ハゲタカの餌になり、その日のうちにきれいに処理してくれます。

    試験走行後半、カウキャッチャーが装備された3両編成の形態 – 走行試験のみならず軌間変更も繰り返した
    著作権情報: USDOT FRA – Public Domain

    2年間で60万km

    2年間で60万kmの累積走行を達成しましたが、実は大変な数字です。もしも日本の在来線で60万km走行するなら5~6年かかります。たった2年で達成しようとするには3倍の効率化が必要です。その為、8時間ごとの3交代制を組みました。第1のシフトは16時から24時で、運転チーム3名(運転士2名と監視員1名)でひたすら運転を続け、第2シフトの0時から8時までは別の運転チーム3名が運転を継続し、1日16時間の走行時間を確保し、出来る限り高速走行を行い距離を稼ぎました。周回線路21.7kmを平均6分28秒で平均200km/hで走行するのが常態です。走行終了後にGCTは専用車庫に帰り、第3シフトの朝8時から16時までの間に、摩耗部品の交換などの点検整備を受けるというパターンの繰り返しです。運転は完全にTTCIの社員だけで実施し、走行中の不具合でも日勤の駐在の鉄道総研社員がTTCI社員を指示して早急に復旧する最も効率の良いシフトです。

    一見、昼間時間帯に走行するのが優遇に思えますがそうではありません。夜間走行なら問題発生で修繕が必要となりTTCIの支援を受ける場合に翌朝から即可能です。でも昼間に走行すると、夜間は修繕対応が出来ず次の昼間時間帯迄待つ必要が生じ24時間の無駄になります。同時並行して試験していたAcela号より優遇されていたと言えます。

    走行距離の蓄積 鉄道総研資料より
    著作権情報: 鉄道総合技術研究所 – Fair Use

    鉄道総研の駐在員

    試験開始から初期の時間は試験に不慣れで、日本との時差もあって、即断即決もかなわず、累積走行がなかなか伸びませんでした。そこで試験の途中からは、鉄道総研の代表者を2名常駐させました。技術の世界ではやはり対面の意思疎通は欠かせません。彼らの活躍も大きいです。試験走行時間が夕方から朝までの16時間ですから、トラブルの緊急呼び出しは、彼らが自宅でくつろいでいる深夜帯に発生します。昼間はGCT点検整備の指揮を執り夜間は緊急呼び出しに答えねばならないのです。海外勤務経験がある日本人と、日本語の読み書きが完璧なスウェーデン人の2人です。夜間のアンテロープと衝突の通勤中の交通事故は彼も体験しました。雪の夜の緊急呼び出しの途上でした。

    また、日本からの視察者の対応も業務でした。国会議員団の視察ではデンバー領事館と受け入れ調整し会食の設定までこなしました。導入の希望の地方自治体の議員団対応や、海外からの技術調査員も多数ありました。人知れず苦労があったものと思います。

    日本に戻り、走行試験が続けられたGCT
    著作権情報: Spaceaero2 – CC-BY SA 3.0

    終わりに

    以上、小田和裕氏にご回想いただいた、GCT米国試験の経緯と現地での体験をお届けしました。以上の回想から見えてくるのは、GCT米国試験が単なる海外試験の一例ではなかったということである。日本国内では実現し得なかった高速耐久試験を、米国コロラド州の荒野という環境のもとで成立させたこの挑戦は、日本の鉄道技術が国外の試験設備を借りてその限界に挑んだ、きわめて稀有な事例だった。

    そして、この試験を支えたのは、制度や設備の整備だけではない。日米で規格も文化も異なるなか、現場で判断を重ね、限られた時間と予算で試験を前へ進めた技術者同士の信頼関係こそが、その土台にあった。

    第一世代GCTはコロラドでの試験終了後、日本に戻り、走行試験が続けられ、改良された第二世代、第三世代の車両も登場したものの、GCTはなお保守性やコストなどの課題を完全に克服できず、2026年現在、新在直通という当初の構想の実現には至っていない。だがこれは決して技術的な不備として切り捨てられるものではない。鉄道事業は民営が基本で、営利企業として経済性や費用対効果が厳しく追求される日本ならではの事情がある。だがその帰結は、九州新幹線西九州ルートなど、各地の整備新幹線をめぐる政策判断の議論とも結びつき、後年には政治的争点の一つともなった。

    しかし小田氏の証言が示しているのは、実用化の成否だけでは測れないこの試験の歴史的な重みである。アメリカの荒野を2年もの間、昼夜問わず走り続けたこの試験車両の記録は、日米の技術者たちが文化や規格の壁を越え、共に汗を流した挑戦の記録として、日米両国の鉄道技術開発史の中でも、記念されるべき一章であろう。

    なお、小田氏からは、技術面については鉄道総研の定期出版物『RRR』2003年5月号「GCT特集号」に詳しい解説がある旨もご教示いただいた。技術内容を補う公開文献として、あわせて参照されたい。

    末尾にあたり、ご多忙のなか長文にわたる詳細なご回想をお寄せくださり、またその掲載にご協力を賜った小田和裕氏に、JATHO編集部一同心より御礼申し上げます。

    オレンジカードのデザインとなったTTCで試験走行中のGCT
    著作権情報: JR四国 – Fair Use
  • 横浜生まれのボーイング電車

    横浜生まれのボーイング電車

    華々しいデビュー当時のボーイング標準LRV 車体裾の「UNITED STATES STANDARD LIGHT RAIL VEHICLE」が誇らしげだ
    著作権情報: USDOT Public Domain

    アメリカを旅行した際、現地のライトレールに乗ったことがある方も多いだろう。架線集電で、車幅2.65m、全長20〜25mと、路面電車にしては大きめ。高床なら2車体、部分低床なら3車体の連節構造の車体には両端に電連が装備されている―それがアメリカのライトレール車両(LRV)の標準的な姿だ。かつてはこの市場に、日本からは日本車両や川崎重工、欧州からはイタリアのブレダ社、カナダからはボンバルディア社などが参入し激しく競合していたが、近年は独シーメンス社と日本の近畿車輛による二強に落ち着いている。メーカーは違えど、標準化された仕様が普及し、シアトルでもダラスでもフェニックスでも、LRVの姿は大差ない。画一的でつまらないと言えばそれまでだが、標準化・共通仕様化がコスト低減に功を奏し、アメリカにおける都市鉄道復権に一役買ったことは間違いない。

    この背後には、かつて連邦政府主導で生み出され、盛大に失敗した標準型車両があった。ボーイング標準LRV—米国連邦政府が威信をかけて立案し、世界有数の巨大メーカーが製造したその車両は、のちのライトレール革命の礎を作りながらも、現場や乗客には嫌われ、失敗作の烙印を押され、歴史の陰に消えた。日本も深く関わったこの一大国家プロジェクトから生まれた幻のLRV—今回はその知られざる軌跡を追う。

    標準LRV構想

    1960年代末のアメリカでは、高速道路整備とモータリゼーションが進む一方で、各地で路面電車網の縮小が進み、かろうじて生き残った都市でも主力だったPCCカーの老朽化が深刻化していた。そこへベトナム戦争終結による軍需縮小が産業界への打撃になりうるという別の課題が重なり、連邦政府は壊滅寸前の都市交通と、終戦不況が迫る防衛産業という二つの悩みを抱えていた。

    その一石二鳥な打開策として打ち出されたのが、「US Standard Light Rail Vehicle」(合衆国標準LRV) だった。結成されたばかりの連邦政府機関であった「Urban Mass Transportation Administration」(都市大量輸送局 – 以下UMTA) – 後の「Federal Transit Administration」(FTA)の後押しのもと、この計画は各都市の交通局ごとにばらばらだった車両調達を一元的に整理し、ボストンやサンフランシスコ、フィラデルフィアのような既存の都市鉄道網で広く使える、近代的で標準化された新型車両を生み出そうとしたものである。かつてPCCカーがそうであったように、標準化によって調達価格を抑え、凋落気味だったアメリカの都市交通を、アメリカが世界に誇る防衛産業の技術力で新しい時代へ進めようとしたのである。

    そして設計・製造を担う企業として白羽の矢が立ったのが、ベトナム戦争向けに大量の軍用ヘリコプターを製造していたことで知られるボーイング・ヴァートル社(以下ボーイング)だった。日本でも同時期に川崎重工がV-107をKV-107としてライセンス生産し、自衛隊やスウェーデン軍などに納入しており、馴染み深い会社だ。1973年、標準LRV調達契約が正式にボーイングと結ばれた。これは車両老朽化が深刻化していた全米各地の交通局にとっても、ベトナム戦争からの撤退で仕事が激減していたボーイングにとっても、まさに渡りに船だった。こうしてボーイング標準LRVは、PCC時代の次を担う次世代電車であると同時に、アメリカの航空宇宙大手が都市交通の世界へ本格参入する新時代の幕開けとしてスタートした。

    この車両構想は、当時としてはきわめて意欲的なものだった。設立間もないUMTAは、標準型LRVの仕様策定にあたり、カナダを含む北米各地の交通局や国内外のメーカーやコンサルタント会社を集めて検討を重ねた。その結果まとめられた標準LRVの仕様は、全長20m級の高床式連接車で、両運転台を備え、3台車6軸から成る本格的な設計であった。従来の単車体PCCカーよりひと回り大きく、片側に3か所の乗降扉を設けることで、輸送力の向上と乗降時間の短縮も図られていた。市街地の併用軌道から専用軌道、さらに地下区間まで幅広く対応できる、まさに次世代の万能型電車を目指した計画だったのである。まずはボストン向けに150両と、サンフランシスコ向けに80両が予定され、その後は全米各地へ投入されるはずだった。

    ボーイング標準LRVが置き換えるはずだったPCCカー
    著作権情報: Voogd075 at Dutch Wikipedia • CC BY-SA 3.0

    その姿もまた、時代の期待をよく映していた。角ばった近代的な車体はどこか無骨でありながら、1970年代のアメリカが思い描いた未来の都市交通そのものだった。丸っこいPCCカーの古典的な流麗さとはひと味違う、標準化と大量輸送の時代に向けた新しい都市鉄道の顔として登場したのである。

    ちなみに「ライトレール」という呼び名自体、実はこの時期のアメリカで生まれた新語だった。UMTAは1972年、欧州で進みつつあった路面電車の近代化・高速化、特にドイツのStadtbahn型都市鉄道のアメリカ版の政策用語として「Light Rail」(ライトレール)を採用し、標準型車両計画も「US Standard Light Rail Vehicle」(合衆国標準LRV)と名づけたのである。意欲的な標準車両の仕様の裏には、従来の路面電車網にそのまま新車を投入するのではなく、その基幹部を既存の路面電車網から独立させ、集中的に高速化・高規格化して郊外へ延長し、新たな都市交通システムへ発展させようとしたUMTAの野心が垣間見える。

    迷走した標準仕様

    壮大な計画を掲げて始まった合衆国標準LRV構想だったが、その理想を実際の車両として形にするのは容易ではなく、計画はやがて迷走していく。最大の理由は、UMTAがボストンとサンフランシスコで大きく異なる条件を一つの標準車両に無理に盛り込んだことにあった。ボストン「Massachusetts Bay Transportation Authority」(マサチューセッツ湾交通局 – 以下MBTA)では、19世紀に建設された地下線区へ続く急曲線を通過するため、車体は先端に向かって大きく幅を絞らざるを得なかった。その結果、車端部のドアとホームの間には大きな隙間が生じたが、低床ホームしかないボストンでは大きな問題にはならなかった。

    ところが、低床ホームの停留所と地下駅の高床ホームが混在するサンフランシスコ「Sanfrancisco Municipal Railway」(サンフランシスコ市営鉄道 – 以下MUNI)では、この隙間が地下駅で危険とみなされ、車端ドアを締め切って乗降を中央寄りの二つのドアに限る措置が取られることとなった。駅によって開かないドアがあることは乗客の戸惑いを招き、停車時間や所要時間の増大につながる事は構想段階からすでに明白だった。こうして標準LRV計画は、仕様を詰める段階からすでに妥協と矛盾を抱え、どちらの都市にも十分適合しない中途半端なものとなってしまった。これは後年の改修でも抜本的に解決されることはなかった。

    設計・製造

    ボーイング標準LRVは、UMTAが基本仕様を定め、ボーイングが設計の取りまとめとペンシルベニア州リドリー・パーク工場での最終組立を担った一方、車両の中核をなす車体シェルや台車枠の製造は横浜の東急車輛製造が担当し、主電動機とチョッパ制御機器は米ギャレット社が供給した。日米以外にもドイツとイギリスが参加しており、実態としては外国の技術と部品を組み合わせて成立した車両だった。

    こうした国際分業が進んだ背景には、ボーイング自身が鉄道車両製造の経験に乏しかったことに加え、アメリカで1952年以来路面電車の製造が途絶えていたため、国内の関連部品の供給基盤が弱体化していた事情があった。つまりこの車両は、米国の国家プロジェクトとして生み出された標準型LRVである一方で、その実現に日本をはじめとする海外の鉄道車両技術と製造力が欠かせなかった。ボーイングLRVは日本製… とまでは言えないものの、日本の分担は他国を大きく上回っていた。

    なお、インターネット上の多くの情報源、特に英語圏のサイトには、ボーイング標準LRVの台車設計が新幹線0系の台車枠や空気バネの設計を流用したものだとの記述がある。しかし、この主張にはやや疑わしい点がある。確かに、ボーイング標準LRVの台車枠と車体を担当した東急車両横浜工場は、旧国鉄向け新幹線0系の製造も請け負っており、当時の最新技術だった空気バネをアメリカの一大プロジェクトに転用したと考えること自体は不自然ではない。

    だが、台車枠については話が別である。新幹線0系の台車とボーイング標準LRVの台車は、ホイールベースや車輪径だけでなく、台車枠の構造そのものが根本的に異なる(新幹線0系は外軸箱方式、ボーイング標準LRVは内軸箱方式)ので同一設計とは到底思えない。そこで、その情報源として引かれているアメリカの科学雑誌『ポピュラーサイエンス』1976年1月号を読むと、

    “The Boeing trolley has a new design truck and air-bag-suspension system that’s adapted from the Japanese Bullet trains”

    という一文があり、誤解はここから生じていると思われる。当該記事の筆者はおそらく新設計の台車(new design truck)と、新幹線由来の空気バネ(air-bag-suspension system)を別々に記述していたが、「新幹線由来」(adapted from the Japanese Bullet trains)が台車にも当てはまると誤解されてしまったと思われる。

    製造と並行して、試験・評価も進められた。1974年末には最初の試作車がボーイング工場敷地内の試験線で初走行を果たし、翌1975年には完成した試作車がボストンMBTAへ送られ、3ヶ月にわたる実地試験に供された。その後、MUNI仕様2両・MBTA仕様1両の量産先行試作車3両がコロラド州プエブロの「Transportation Technology Center」(交通試験センター)に送り込まれ、そこの「Transit Test Track」(都市交通試験線 – 以下TTT)でボーイングと連邦運輸省の合同チームによる試験が進められた。このTTTはUMTAが1970年代初頭に整備した施設で、建設当初は地下鉄車両の走行試験を念頭に第三軌条方式で電化されていたが、ボーイング標準LRVの試験に先立ち、架空電車線方式の電化設備も併設された。

    こうしてプエブロ、ボーイング工場、サンフランシスコ、ボストンの各地で乗り心地や騒音、電磁干渉などの各種性能試験が急ピッチで進められた。短縮された試験期間で得られたデータは概ね要求を満たすものとされたが、実際の路線に投入された途端に次々と問題が噴出することとなる。

    1976年中旬にはオハイオ州クリーブランド市でもインターアーバンの廃線跡でMBTA向けの3401号車を走らせる実地試験が実施されたが、クリーブランド「Greater Cleveland Regional Transit Authority」(広域クリーブランド交通局 – 以下GCRTA)はボーイングの売り込みを辞退した。翌年1977年にGCRTAはLRV導入に向けた公開入札を行い、ボーイングも応募したが、ブレダ社に破れ導入には至らなかった。

    現場の苦闘

    営業運転は1976年12月30日、まずボストンで始まったが、華々しい登場と大きな期待とは裏腹に、現場での評価は早い段階から厳しいものになった。導入直後から、扉、空調、電装品、保守性、車体の耐久性、そして急曲線での脱線事故など、何から何までが問題になったからである。特に立て続けに発生した脱線事故は致命的で、営業運転開始のわずか3ヶ月後の1977年4月16日には全車運行停止に追い込まれている。

    登場初期のプラグドアも厄介だった。従来のPCCカーのドアとは比較にならないほど多くの部品で構成されており、その複雑さは故障や誤作動を招いた。ドア故障は遅延や運転打ち切りに繋がり、ボーイング標準LRVは新車なのに頼りにならない欠陥品として現場や乗客から嫌われた。

    床下に搭載された冷房装置も厄介だった。地下区間を走るうちに、トンネル内のほこりやごみを吸い込みやすい構造が弱点となり、保守の手間を増やしていった。また、保守性への配慮が不十分な設計で、簡単な修理や部品交換で済むはずの故障が、車体への大掛かりな板金加工へエスカレートすることもしばしばあった。さらに急曲線での脱線事故や、弾性車輪の破断、主電動機やチョッパ制御システムをはじめとする電気系統の故障も相次ぎ、先進的な技術を盛り込んだはずの車両は、現場では使い物にならなかった。

    MBTAで大規模改修工事を受けたボーイング標準LRV 冷房装置が屋根上に移設され、ドアも折戸に改造され、信頼性が格段に向上した
    著作権情報: Adam E. Moreira – CC BY-SA 3.0

    ボストン(MBTA)では、その影響がとりわけ深刻だった。新型車の信頼性が特段に低く、旧式のPCCカーを引退させるどころか、逆に延命して使い続けなければならなかった。35両もの故障車を部品取り用に休車してその場をしのいでいたが、それらの車両が乗客や市民の目が届かないよう廃線のトンネル内に隠されていたことが地元新聞社にスクープされ、一大スキャンダルとなった。新時代の主役として送り出されたはずの新車が、かえって現場や利用者を苦しめる皮肉な状況が生まれたのである。

    やがてこの問題は単なる不評では済まなくなる。1978年10月9日、ボストンのMBTAは残る40両の受領を正式に拒否し、MBTAとボーイングの摩擦はついに法的紛争へ発展した。裁判は一年以上にわたって続き、法律事務所への支払いが新車一両当たりの調達価格の数倍と多額に膨れ上がり、議会で問題になったほどだ。1979年11月19日、ボーイングとMBTAはなんとか和解に至り、ボーイングは4,000万ドルに上る巨額の賠償金をMBTAに支払い、MBTAは残りの車両受領拒否権を手にした(1979年の4,000万ドルは、2026年の価値では約2億5,500万ドル、約400億円に相当)。その一方で、その後の改修はMBTAの自己責任となり、MBTAは多額の費用を投じてドアや冷房装置を中心に独自改造を進め、車両は原型を留めないほどに変貌していった。標準化と合理化の象徴として生まれたこの新車両は、現実には改修作業や延命工事が延々と終わらない金食い虫へと変貌していったのである。

    一方のサンフランシスコ(MUNI)では、当初ボーイング標準LRVは大きな期待を持って待ち受けられた。1975年には新車導入に合わせて交通局(MUNI)がロゴを刷新したほどだったが、計画の遅れで営業運転開始は1979年にずれ込んだ。ボストン同様、現場や乗客からの評価は芳しくなかった。地下路線の高床ホームと地上停留所の低床ホームの両方に対応するために盛り込まれた特殊な扉やステップ構成は機構が複雑で、故障が後を絶たなかった。後年、ボストンが受領拒否・返品した車両をサンフランシスコ仕様に改修する作業も多額の費用を要した。

    車体の腐食も後年の大きな悩みとなった。海辺の都市で使われること自体が厳しい条件だったうえ、車体や台車が日本からパナマ運河経由で貨物船の甲板上に固定されて露天輸送され、さらに組み立てを待つ間にもボーイング工場近くの屋外で保管されたことも悪条件として重なった。全米の期待を背負って始まった標準LRVプロジェクトだったが、ボーイングもUMTAもこの手の計画に関する経験が乏しく、机上の理想と現場の現実との隔たりが次第に浮き彫りになっていった。

    ボーイング標準LRVが残したもの

    大きな期待を背負ってデビューしたものの、脱線事故や故障、そして訴訟と、波乱万丈の生涯を歩んだボーイング標準LRVは、やがて静かに人知れず表舞台を去っていった。サンフランシスコ(MUNI)ではブレダ社製後継車へ置き換えられ、1996年から2001年にかけて順次退役した。ボストン(MBTA)では幾度もの改修を経て辛うじて走り続けたが、2007年には営業運転を終えている。かつて全米各地で走ったボーイング標準LRVのうち、博物館で一般公開されているのはわずか3両に過ぎない。オレゴン電鉄博物館にはMUNIの1213号車が、カリフォルニア州のウェスタン鉄道博物館にはMUNIの1258号車がそれぞれ動態保存され、今も来館客を乗せて定期的に走っている。一方でボストンMBTAから2009年にシーショア・トロリー博物館に引き取られた3424号車は、さすがに力尽きたのか、静態保存だ。

    ボーイング標準LRVは、見ての通り決して成功作とは言えない車両だった。素人集団が現実離れした理想を形にしようとした結果、現実の壁に正面から激突したのだ。かつてボーイング標準LRVが走ったボストンでもサンフランシスコでも、ボーイング標準LRVが置き換えるはずだったPCCカーが、一部未だに現役だ。フィラデルフィア(SEPTA)に至っては途中で計画から離脱し、川崎重工製のLRVに計画変更した。

    それでも、この車両を単純な失敗作として片づけることはできない。合衆国標準LRVの調達で要求された連接・3台車・両運転台という基本構成や、新世代LRV車両のスペックや寸法感覚は、後に多数建設されたライトレールの礎となり、近年になってボーイング標準LRVの歴史的な役割は再評価されている。ボストンとサンフランシスコで後に主力となった近畿車両のType 7やブレダ車はもちろんのこと、独シーメンス社が全米各地向けに量産したSD-100やS70なども、ボーイング標準LRVが築いた土台の上に現れた存在だ。既存の旧式インフラとの整合が取れずに躓いたボーイングLRVに比べ、その後建設されたライトレールは新世代LRVに合わせて線路や駅などの施設も標準化された事も成功の鍵となった。さらに、最終組立が行われたペンシルベニア州のボーイング工場は、のちにフィラデルフィア(SEPTA)向け川崎重工製LRVの組立にも使われることになる。車体と台車枠を請け負った東急車輛も、ボーイング標準LRVから学んだ技術的知見はバッファロー(NFTA)向けLRVなどのアメリカ向け車輛のみならず、日本国内向けの車輛にも生きている。

    シアトル近郊で活躍する近畿車輛のLRV – 車両もインフラも標準化された新品だ
    著作権情報: 日米交通歴史協会 – Public Domain

    そして一元的に次世代路面電車を開発するという考えは、後に日本鉄道技術協会による軽快電車開発研究委員会の設立にも大きな影響を与えた。その成果である広島電鉄3500形電車では、採用されたチョッパ制御や内軸箱方式(インサイドフレーム)台車などの新技術は、ほとんどがボーイング標準LRVの実績に基づいている。失敗の経験は、次の世代の車両づくりに確かに受け継がれていったのである。

    横浜生まれのボーイング電車、合衆国標準LRVは単なる黒歴史では終わらない。アメリカの都市交通の転換期に現れ、今の時代にしっかりと足跡を残した野心的な問題児だった。その不器用さも含めて、ボーイング標準LRVはアメリカがポストPCC時代を模索し、近代的なLRVの完成形を試行錯誤の末に見いだしていく過程そのものを体現している。

  • 理事長からのご挨拶

    理事長からのご挨拶

    みなさん、こんにちは。日米交通歴史協会(JATHO)理事長のコートです。

    このたび、JATHOの新しい試みとしてブログを始めることにしました。

    これまで当協会では、SNSや公式ウェブサイトを通じて情報を発信してきましたが、それぞれに少しずつ難しさもありました。SNSは気軽に発信できる反面、どうしても画像中心になりやすく、文字数にも限りがあります。また、日本語と英語の両方で情報を届けようとすると、読みづらさや伝え方の難しさを感じることもありました。

    一方で、ウェブサイトは団体の将来像など、長期的な情報を載せるのには向いているものの、記事などを気軽に、そして複数人がそれぞれのペースで発信していくには不向きでした。

    そこで、その中間のような場として、このブログを試験的に運営していくことにしました。SNSでは載せきれない話や、ウェブサイトに載せるほどではないけれどぜひ紹介したい話題などを、こちらで少しずつ発信していければと思っています。

    JATHOはアメリカの団体ですので、SNSでは英語を先に投稿することが基本ですが、日本のサポーターの皆さまにももっと読みやすい形で情報をお届けしたいという思いが以前からありました。このブログが、そのためのひとつの場所になればうれしいです。

    今のところは、理事長の私と、日本側からの参加者1名でのスタートです。まだ手探りではありますが、今後少しずつ記事を増やしていく予定ですので、どうぞ気軽にお付き合いください。

    また、このブログに寄稿されたい方がいらっしゃいましたら是非ともご連絡ください。

    これからよろしくお願いいたします。