横浜生まれのボーイング電車

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華々しいデビュー当時のボーイング標準LRV 車体裾の「UNITED STATES STANDARD LIGHT RAIL VEHICLE」が誇らしげだ
著作権情報: USDOT Public Domain

アメリカを旅行した際、現地のライトレールに乗ったことがある方も多いだろう。架線集電で、車幅2.65m、全長20〜25mと、路面電車にしては大きめ。高床なら2車体、部分低床なら3車体の連節構造の車体には両端に電連が装備されている―それがアメリカのライトレール車両(LRV)の標準的な姿だ。かつてはこの市場に、日本からは日本車両や川崎重工、欧州からはイタリアのブレダ社、カナダからはボンバルディア社などが参入し激しく競合していたが、近年は独シーメンス社と日本の近畿車輛による二強に落ち着いている。メーカーは違えど、標準化された仕様が普及し、シアトルでもダラスでもフェニックスでも、LRVの姿は大差ない。画一的でつまらないと言えばそれまでだが、標準化・共通仕様化がコスト低減に功を奏し、アメリカにおける都市鉄道復権に一役買ったことは間違いない。

この背後には、かつて連邦政府主導で生み出され、盛大に失敗した標準型車両があった。ボーイング標準LRV—米国連邦政府が威信をかけて立案し、世界有数の巨大メーカーが製造したその車両は、のちのライトレール革命の礎を作りながらも、現場や乗客には嫌われ、失敗作の烙印を押され、歴史の陰に消えた。日本も深く関わったこの一大国家プロジェクトから生まれた幻のLRV—今回はその知られざる軌跡を追う。

標準LRV構想

1960年代末のアメリカでは、高速道路整備とモータリゼーションが進む一方で、各地で路面電車網の縮小が進み、かろうじて生き残った都市でも主力だったPCCカーの老朽化が深刻化していた。そこへベトナム戦争終結による軍需縮小が産業界への打撃になりうるという別の課題が重なり、連邦政府は壊滅寸前の都市交通と、終戦不況が迫る防衛産業という二つの悩みを抱えていた。

その一石二鳥な打開策として打ち出されたのが、「US Standard Light Rail Vehicle」(合衆国標準LRV) だった。結成されたばかりの連邦政府機関であった「Urban Mass Transportation Administration」(都市大量輸送局 – 以下UMTA) – 後の「Federal Transit Administration」(FTA)の後押しのもと、この計画は各都市の交通局ごとにばらばらだった車両調達を一元的に整理し、ボストンやサンフランシスコ、フィラデルフィアのような既存の都市鉄道網で広く使える、近代的で標準化された新型車両を生み出そうとしたものである。かつてPCCカーがそうであったように、標準化によって調達価格を抑え、凋落気味だったアメリカの都市交通を、アメリカが世界に誇る防衛産業の技術力で新しい時代へ進めようとしたのである。

そして設計・製造を担う企業として白羽の矢が立ったのが、ベトナム戦争向けに大量の軍用ヘリコプターを製造していたことで知られるボーイング・ヴァートル社(以下ボーイング)だった。日本でも同時期に川崎重工がV-107をKV-107としてライセンス生産し、自衛隊やスウェーデン軍などに納入しており、馴染み深い会社だ。1973年、標準LRV調達契約が正式にボーイングと結ばれた。これは車両老朽化が深刻化していた全米各地の交通局にとっても、ベトナム戦争からの撤退で仕事が激減していたボーイングにとっても、まさに渡りに船だった。こうしてボーイング標準LRVは、PCC時代の次を担う次世代電車であると同時に、アメリカの航空宇宙大手が都市交通の世界へ本格参入する新時代の幕開けとしてスタートした。

この車両構想は、当時としてはきわめて意欲的なものだった。設立間もないUMTAは、標準型LRVの仕様策定にあたり、カナダを含む北米各地の交通局や国内外のメーカーやコンサルタント会社を集めて検討を重ねた。その結果まとめられた標準LRVの仕様は、全長20m級の高床式連接車で、両運転台を備え、3台車6軸から成る本格的な設計であった。従来の単車体PCCカーよりひと回り大きく、片側に3か所の乗降扉を設けることで、輸送力の向上と乗降時間の短縮も図られていた。市街地の併用軌道から専用軌道、さらに地下区間まで幅広く対応できる、まさに次世代の万能型電車を目指した計画だったのである。まずはボストン向けに150両と、サンフランシスコ向けに80両が予定され、その後は全米各地へ投入されるはずだった。

ボーイング標準LRVが置き換えるはずだったPCCカー
著作権情報: Voogd075 at Dutch Wikipedia • CC BY-SA 3.0

その姿もまた、時代の期待をよく映していた。角ばった近代的な車体はどこか無骨でありながら、1970年代のアメリカが思い描いた未来の都市交通そのものだった。丸っこいPCCカーの古典的な流麗さとはひと味違う、標準化と大量輸送の時代に向けた新しい都市鉄道の顔として登場したのである。

ちなみに「ライトレール」という呼び名自体、実はこの時期のアメリカで生まれた新語だった。UMTAは1972年、欧州で進みつつあった路面電車の近代化・高速化、特にドイツのStadtbahn型都市鉄道のアメリカ版の政策用語として「Light Rail」(ライトレール)を採用し、標準型車両計画も「US Standard Light Rail Vehicle」(合衆国標準LRV)と名づけたのである。意欲的な標準車両の仕様の裏には、従来の路面電車網にそのまま新車を投入するのではなく、その基幹部を既存の路面電車網から独立させ、集中的に高速化・高規格化して郊外へ延長し、新たな都市交通システムへ発展させようとしたUMTAの野心が垣間見える。

迷走した標準仕様

壮大な計画を掲げて始まった合衆国標準LRV構想だったが、その理想を実際の車両として形にするのは容易ではなく、計画はやがて迷走していく。最大の理由は、UMTAがボストンとサンフランシスコで大きく異なる条件を一つの標準車両に無理に盛り込んだことにあった。ボストン「Massachusetts Bay Transportation Authority」(マサチューセッツ湾交通局 – 以下MBTA)では、19世紀に建設された地下線区へ続く急曲線を通過するため、車体は先端に向かって大きく幅を絞らざるを得なかった。その結果、車端部のドアとホームの間には大きな隙間が生じたが、低床ホームしかないボストンでは大きな問題にはならなかった。

ところが、低床ホームの停留所と地下駅の高床ホームが混在するサンフランシスコ「Sanfrancisco Municipal Railway」(サンフランシスコ市営鉄道 – 以下MUNI)では、この隙間が地下駅で危険とみなされ、車端ドアを締め切って乗降を中央寄りの二つのドアに限る措置が取られることとなった。駅によって開かないドアがあることは乗客の戸惑いを招き、停車時間や所要時間の増大につながる事は構想段階からすでに明白だった。こうして標準LRV計画は、仕様を詰める段階からすでに妥協と矛盾を抱え、どちらの都市にも十分適合しない中途半端なものとなってしまった。これは後年の改修でも抜本的に解決されることはなかった。

設計・製造

ボーイング標準LRVは、UMTAが基本仕様を定め、ボーイングが設計の取りまとめとペンシルベニア州リドリー・パーク工場での最終組立を担った一方、車両の中核をなす車体シェルや台車枠の製造は横浜の東急車輛製造が担当し、主電動機とチョッパ制御機器は米ギャレット社が供給した。日米以外にもドイツとイギリスが参加しており、実態としては外国の技術と部品を組み合わせて成立した車両だった。

こうした国際分業が進んだ背景には、ボーイング自身が鉄道車両製造の経験に乏しかったことに加え、アメリカで1952年以来路面電車の製造が途絶えていたため、国内の関連部品の供給基盤が弱体化していた事情があった。つまりこの車両は、米国の国家プロジェクトとして生み出された標準型LRVである一方で、その実現に日本をはじめとする海外の鉄道車両技術と製造力が欠かせなかった。ボーイングLRVは日本製… とまでは言えないものの、日本の分担は他国を大きく上回っていた。

なお、インターネット上の多くの情報源、特に英語圏のサイトには、ボーイング標準LRVの台車設計が新幹線0系の台車枠や空気バネの設計を流用したものだとの記述がある。しかし、この主張にはやや疑わしい点がある。確かに、ボーイング標準LRVの台車枠と車体を担当した東急車両横浜工場は、旧国鉄向け新幹線0系の製造も請け負っており、当時の最新技術だった空気バネをアメリカの一大プロジェクトに転用したと考えること自体は不自然ではない。

だが、台車枠については話が別である。新幹線0系の台車とボーイング標準LRVの台車は、ホイールベースや車輪径だけでなく、台車枠の構造そのものが根本的に異なる(新幹線0系は外軸箱方式、ボーイング標準LRVは内軸箱方式)ので同一設計とは到底思えない。そこで、その情報源として引かれているアメリカの科学雑誌『ポピュラーサイエンス』1976年1月号を読むと、

“The Boeing trolley has a new design truck and air-bag-suspension system that’s adapted from the Japanese Bullet trains”

という一文があり、誤解はここから生じていると思われる。当該記事の筆者はおそらく新設計の台車(new design truck)と、新幹線由来の空気バネ(air-bag-suspension system)を別々に記述していたが、「新幹線由来」(adapted from the Japanese Bullet trains)が台車にも当てはまると誤解されてしまったと思われる。

製造と並行して、試験・評価も進められた。1974年末には最初の試作車がボーイング工場敷地内の試験線で初走行を果たし、翌1975年には完成した試作車がボストンMBTAへ送られ、3ヶ月にわたる実地試験に供された。その後、MUNI仕様2両・MBTA仕様1両の量産先行試作車3両がコロラド州プエブロの「Transportation Technology Center」(交通試験センター)に送り込まれ、そこの「Transit Test Track」(都市交通試験線 – 以下TTT)でボーイングと連邦運輸省の合同チームによる試験が進められた。このTTTはUMTAが1970年代初頭に整備した施設で、建設当初は地下鉄車両の走行試験を念頭に第三軌条方式で電化されていたが、ボーイング標準LRVの試験に先立ち、架空電車線方式の電化設備も併設された。

こうしてプエブロ、ボーイング工場、サンフランシスコ、ボストンの各地で乗り心地や騒音、電磁干渉などの各種性能試験が急ピッチで進められた。短縮された試験期間で得られたデータは概ね要求を満たすものとされたが、実際の路線に投入された途端に次々と問題が噴出することとなる。

1976年中旬にはオハイオ州クリーブランド市でもインターアーバンの廃線跡でMBTA向けの3401号車を走らせる実地試験が実施されたが、クリーブランド「Greater Cleveland Regional Transit Authority」(広域クリーブランド交通局 – 以下GCRTA)はボーイングの売り込みを辞退した。翌年1977年にGCRTAはLRV導入に向けた公開入札を行い、ボーイングも応募したが、ブレダ社に破れ導入には至らなかった。

現場の苦闘

営業運転は1976年12月30日、まずボストンで始まったが、華々しい登場と大きな期待とは裏腹に、現場での評価は早い段階から厳しいものになった。導入直後から、扉、空調、電装品、保守性、車体の耐久性、そして急曲線での脱線事故など、何から何までが問題になったからである。特に立て続けに発生した脱線事故は致命的で、営業運転開始のわずか3ヶ月後の1977年4月16日には全車運行停止に追い込まれている。

登場初期のプラグドアも厄介だった。従来のPCCカーのドアとは比較にならないほど多くの部品で構成されており、その複雑さは故障や誤作動を招いた。ドア故障は遅延や運転打ち切りに繋がり、ボーイング標準LRVは新車なのに頼りにならない欠陥品として現場や乗客から嫌われた。

床下に搭載された冷房装置も厄介だった。地下区間を走るうちに、トンネル内のほこりやごみを吸い込みやすい構造が弱点となり、保守の手間を増やしていった。また、保守性への配慮が不十分な設計で、簡単な修理や部品交換で済むはずの故障が、車体への大掛かりな板金加工へエスカレートすることもしばしばあった。さらに急曲線での脱線事故や、弾性車輪の破断、主電動機やチョッパ制御システムをはじめとする電気系統の故障も相次ぎ、先進的な技術を盛り込んだはずの車両は、現場では使い物にならなかった。

MBTAで大規模改修工事を受けたボーイング標準LRV 冷房装置が屋根上に移設され、ドアも折戸に改造され、信頼性が格段に向上した
著作権情報: Adam E. Moreira – CC BY-SA 3.0

ボストン(MBTA)では、その影響がとりわけ深刻だった。新型車の信頼性が特段に低く、旧式のPCCカーを引退させるどころか、逆に延命して使い続けなければならなかった。35両もの故障車を部品取り用に休車してその場をしのいでいたが、それらの車両が乗客や市民の目が届かないよう廃線のトンネル内に隠されていたことが地元新聞社にスクープされ、一大スキャンダルとなった。新時代の主役として送り出されたはずの新車が、かえって現場や利用者を苦しめる皮肉な状況が生まれたのである。

やがてこの問題は単なる不評では済まなくなる。1978年10月9日、ボストンのMBTAは残る40両の受領を正式に拒否し、MBTAとボーイングの摩擦はついに法的紛争へ発展した。裁判は一年以上にわたって続き、法律事務所への支払いが新車一両当たりの調達価格の数倍と多額に膨れ上がり、議会で問題になったほどだ。1979年11月19日、ボーイングとMBTAはなんとか和解に至り、ボーイングは4,000万ドルに上る巨額の賠償金をMBTAに支払い、MBTAは残りの車両受領拒否権を手にした(1979年の4,000万ドルは、2026年の価値では約2億5,500万ドル、約400億円に相当)。その一方で、その後の改修はMBTAの自己責任となり、MBTAは多額の費用を投じてドアや冷房装置を中心に独自改造を進め、車両は原型を留めないほどに変貌していった。標準化と合理化の象徴として生まれたこの新車両は、現実には改修作業や延命工事が延々と終わらない金食い虫へと変貌していったのである。

一方のサンフランシスコ(MUNI)では、当初ボーイング標準LRVは大きな期待を持って待ち受けられた。1975年には新車導入に合わせて交通局(MUNI)がロゴを刷新したほどだったが、計画の遅れで営業運転開始は1979年にずれ込んだ。ボストン同様、現場や乗客からの評価は芳しくなかった。地下路線の高床ホームと地上停留所の低床ホームの両方に対応するために盛り込まれた特殊な扉やステップ構成は機構が複雑で、故障が後を絶たなかった。後年、ボストンが受領拒否・返品した車両をサンフランシスコ仕様に改修する作業も多額の費用を要した。

車体の腐食も後年の大きな悩みとなった。海辺の都市で使われること自体が厳しい条件だったうえ、車体や台車が日本からパナマ運河経由で貨物船の甲板上に固定されて露天輸送され、さらに組み立てを待つ間にもボーイング工場近くの屋外で保管されたことも悪条件として重なった。全米の期待を背負って始まった標準LRVプロジェクトだったが、ボーイングもUMTAもこの手の計画に関する経験が乏しく、机上の理想と現場の現実との隔たりが次第に浮き彫りになっていった。

ボーイング標準LRVが残したもの

大きな期待を背負ってデビューしたものの、脱線事故や故障、そして訴訟と、波乱万丈の生涯を歩んだボーイング標準LRVは、やがて静かに人知れず表舞台を去っていった。サンフランシスコ(MUNI)ではブレダ社製後継車へ置き換えられ、1996年から2001年にかけて順次退役した。ボストン(MBTA)では幾度もの改修を経て辛うじて走り続けたが、2007年には営業運転を終えている。かつて全米各地で走ったボーイング標準LRVのうち、博物館で一般公開されているのはわずか3両に過ぎない。オレゴン電鉄博物館にはMUNIの1213号車が、カリフォルニア州のウェスタン鉄道博物館にはMUNIの1258号車がそれぞれ動態保存され、今も来館客を乗せて定期的に走っている。一方でボストンMBTAから2009年にシーショア・トロリー博物館に引き取られた3424号車は、さすがに力尽きたのか、静態保存だ。

ボーイング標準LRVは、見ての通り決して成功作とは言えない車両だった。素人集団が現実離れした理想を形にしようとした結果、現実の壁に正面から激突したのだ。かつてボーイング標準LRVが走ったボストンでもサンフランシスコでも、ボーイング標準LRVが置き換えるはずだったPCCカーが、一部未だに現役だ。フィラデルフィア(SEPTA)に至っては途中で計画から離脱し、川崎重工製のLRVに計画変更した。

それでも、この車両を単純な失敗作として片づけることはできない。合衆国標準LRVの調達で要求された連接・3台車・両運転台という基本構成や、新世代LRV車両のスペックや寸法感覚は、後に多数建設されたライトレールの礎となり、近年になってボーイング標準LRVの歴史的な役割は再評価されている。ボストンとサンフランシスコで後に主力となった近畿車両のType 7やブレダ車はもちろんのこと、独シーメンス社が全米各地向けに量産したSD-100やS70なども、ボーイング標準LRVが築いた土台の上に現れた存在だ。既存の旧式インフラとの整合が取れずに躓いたボーイングLRVに比べ、その後建設されたライトレールは新世代LRVに合わせて線路や駅などの施設も標準化された事も成功の鍵となった。さらに、最終組立が行われたペンシルベニア州のボーイング工場は、のちにフィラデルフィア(SEPTA)向け川崎重工製LRVの組立にも使われることになる。車体と台車枠を請け負った東急車輛も、ボーイング標準LRVから学んだ技術的知見はバッファロー(NFTA)向けLRVなどのアメリカ向け車輛のみならず、日本国内向けの車輛にも生きている。

シアトル近郊で活躍する近畿車輛のLRV – 車両もインフラも標準化された新品だ
著作権情報: 日米交通歴史協会 – Public Domain

そして一元的に次世代路面電車を開発するという考えは、後に日本鉄道技術協会による軽快電車開発研究委員会の設立にも大きな影響を与えた。その成果である広島電鉄3500形電車では、採用されたチョッパ制御や内軸箱方式(インサイドフレーム)台車などの新技術は、ほとんどがボーイング標準LRVの実績に基づいている。失敗の経験は、次の世代の車両づくりに確かに受け継がれていったのである。

横浜生まれのボーイング電車、合衆国標準LRVは単なる黒歴史では終わらない。アメリカの都市交通の転換期に現れ、今の時代にしっかりと足跡を残した野心的な問題児だった。その不器用さも含めて、ボーイング標準LRVはアメリカがポストPCC時代を模索し、近代的なLRVの完成形を試行錯誤の末に見いだしていく過程そのものを体現している。