北米市場への挑戦、そして遺されるべき日米交通史
クリーブランド向けAirporter II計画の困難さは、車両を設計し、製造することだけではなかった。これは単なる「日本製電車の輸出」ではなく、鬼門の北米市場に挑戦した日本メーカーと、地域経済・雇用・政治的説明責任を重んじるアメリカの公共事業制度とが正面から向き合った困難な国際プロジェクトだった。
東急車輛製造の重鎮として実際にクリーブランドへ赴き、受注から設計、現地折衝まで深く関わった土岐實光氏は、交友社『鉄道ファン』に連載した「ある車両技術者の回想」のなかで、この案件の難しさを克明に記している。
契約獲得にあたってはGCRTAの理事会から、最終組立をクリーブランド地区で行うこと、クリーブランド港を使用すること、可能な限りクリーブランド製または地元部品を採用すること、といった困難な条件が課されたという。そこにはバイ・アメリカン法をはじめとする公共調達制度だけでなく、地元雇用、地域経済、自治体政治、理事会の承認、市民への説明責任といった、アメリカの都市交通事業に特有の「現地性」が濃密に反映されていた。また、実現が困難とされた一部要求を暗黙の了解で静かに撤回してもらうという、日本では考えられない展開もあった。
GCRTA理事会の理不尽な要求はなんとか回避できても、厳格な連邦法であるバイ・アメリカン法の厳しい要求には手も足も出ない。そこで東急車輛は完成車を日本から送り出すのではなく、日本で設計と車体の製作を担い、アメリカ製部品を幅広く採用したうえで、現地のGE社修繕工場で最終組立を行う方式を選んだ。まず4両が日本で完成し、続く量産車の56両は半完成の状態でアメリカへ送られ、クリーブランド地区で仕上げられる計画であった。
この方式は、後年には当然のものとなる「現地化生産」の先駆的な実践でもあった。日本で培った車両設計・製造技術を持ち込みつつ、部品調達、組立、雇用の面ではアメリカの地域社会と結びつく。Airporter IIは、日本メーカーが北米市場へ本格参入するために必要だった、その困難で実践的なパイオニアだったのである。
モックアップによる確認、車体の構体荷重試験、アメリカ向け車両として求められる各種試験は日本で順調に進められた。1983年12月に『鉄道ファン』編集部が撮影した写真には、東急車輛の工場で完成したばかりのステンレス車が、太平洋を越える直前の姿で記録されている。完成車は1984年から順次搬入され、試運転を経て営業運転に投入された。以来40年以上にわたり、クリーブランドの都心と空港を結ぶ輸送を支え続けてきた。しかし、長年に及ぶ厳しい運用の結果、経年劣化、腐食、事故、補修部品の枯渇といった問題は避けられなかった。更新工事を受けず状態が悪化した車両から順に引退し、2026年現在、20両が廃車となっている。これらは部品取りの後に解体され、材料ごとに分別されリサイクルされた。

東急車輛横浜製作所で完成したトップナンバー181号車
©GCRTA – Public Domain
電車が結んだ、日米の友情
Airporter IIは、国際入札、技術移転、現地組立、部品調達という複雑な条件のもとで生まれた車両である。しかしその背後には、契約書や仕様書だけでは記録しきれない、人と人との信頼と友情があった。
東急車輛の受注・設計・海外案件に深く関わった土岐實光氏(1922–2011)は、GCRTAの鉄道部長だったシスラック氏との間に、この案件を通じて深い友情を育んだ。土岐氏の回想によれば、シスラック氏は事務系の大学教育を受けながらも車両技術に精通し、GCRTAの鉄道部門の部長として卓越した力量を備えた人物だったという。決断が速く、運用者として現場のことを考えながらも、メーカーとしての東急車輛の立場にも配慮を示し、車両の納入、事業者の運用、そしてプロジェクト全体にとって何が最善かを共に考えた。アメリカと日本、発注者と製造者という国境や立場を超え、互いをプロフェッショナルとして尊重する関係が、そこにはあった。
両者の交流はやがて仕事の範囲を越えていく。日本文化、なかでも歌舞伎に関心を持っていたシスラック氏は土岐氏を自宅に招き、夫人の手料理でもてなした。土岐氏もまたシスラック氏を自宅へ招待した。日本の車両メーカーとアメリカの交通事業者、その担当者同士の間に、家族ぐるみの交流が生まれていたのである。
とりわけ象徴的なのは、車両の納入開始後、シスラック氏が来日した際の出来事である。彼は「ぜひ工場の皆さんに直接お礼を言いたい」と申し出た。そこで土岐氏は横浜工場の千人余りの従業員を集め、シスラック氏を紹介した。演壇に立ったシスラック氏は、自らの言葉で、立派な電車を納めてくれたことへの感謝を工場の従業員へ伝えたという。土岐氏にとって、それは国内向け、輸出向けを問わず、それまで経験したことのない出来事だった。現場で車両をつくった人々にとっても、自分たちの仕事が遠い異国の都市で乗客を運び、その現地の事業者のトップから直接感謝されるという経験は、強い印象を残したに違いない。

GE修繕工場で撮影された340号車完成記念写真
©Ken Sislak – Used with Permission
さらに土岐氏は、シスラック氏がGCRTA退職後に保険会社へ移り、業務上の関係が完全になくなった後も、毎年クリスマスカードを交わし続けたことを記している。そこには近況報告だけでなく、土岐氏の家族を気遣う言葉も添えられていたという。
土岐氏は退職後、『鉄道ファン』に「ある車両技術者の回想」を全22回にわたって執筆し、受注、設計、製造、試験、海外案件など、戦後日本の鉄道車両技術史を語り残した。この連載は後に『電車を創る』 (1994年、交友社) としてまとめられている。他の記事が主として車両技術や事業上の経緯、そして苦労話を中心に描いているのに対し、Airporter II の記事はこの案件を通じて出会ったシスラック氏との友情関係へ深く焦点を当てている。わずか6ページの記事に、シスラック氏の名は15回も登場する。この一点だけを見ても、土岐氏にとってクリーブランド向け Airporter II 電車が、単なる輸出案件ではなく、生涯に残る特別な経験だったことがうかがえる。
鬼門の北米市場
Airporter IIの歴史的価値は、単に「日本製電車がアメリカで走った」という事実にとどまらない。1970年代末から1980年代にかけ、日本の鉄道車両メーカーが北米市場で信頼を獲得していく転機の一つとなり、その成果が40年以上にわたり実用車両として使われ続けたことに、本車の意義がある。
東急車輛の北米展開は、Airporter II だけではなかった。ボーイング標準型LRVの車体シェルおよび台車の製作、1983年のバッファロー向けLRV、メトロノース鉄道向けM4形電車、1990~91年のロングアイランド鉄道向けC1二階建て客車などへと連なる。Airporter IIは、日本メーカーの北米挑戦を象徴する重要な一頁だった。
しかし、この実績が安定した収益を伴ったわけではない。北米市場では受注量の変動が大きく、現地生産体制の設立には大きな負担が伴った。加えて収益環境の悪化や為替変動も重なり、東急車輛の北米向け事業は次第に苦境へ向かい、同社はやがて北米市場から撤退した。東急グループの車両製造事業そのものも2012年にJR東日本へ承継され、現在のJ-TRECへとつながっている。
北米市場で苦戦した日本メーカーは、東急車輛だけではない。長年にわたり絶大な存在感を示してきた日本車両も、大型案件で躓き、2018年にイリノイ州ロシェル工場を閉鎖し、北米市場から撤退した。技術力や過去の実績だけでは乗り切れない、北米鉄道車両ビジネスの厳しさがそこに表れている。
一方、日本勢が完全に姿を消したわけでもない。川崎重工業グループはワシントン地下鉄向け7000系を納入し、ニューヨーク市地下鉄向けR268系も受注している。Hitachi Railはボルチモア地下鉄向け新型車両やCBTC信号システムを担い、近畿車輛もロサンゼルス向け地下鉄車両の現地最終組立に関わっている。
ただし、今日の市場も決して安泰ではない。中国や韓国のメーカーが新規参入し、欧州勢も巻き返す中、現地生産、調達要件、契約条件、政治的判断、品質保証、長期保守責任などが複雑に絡み合う北米市場は、いまなお激しい競争の場である。
その意味で、クリーブランドの東急電車は、日本の鉄道車両メーカーがこぞって北米市場へ挑戦した時代を象徴する存在であると同時に、その後に続いた苦闘を照らし出す基準点でもある。成功の記念碑であるとともに、国際市場へ挑むことの難しさを静かに語る歴史の証人なのである。
終着駅ではなく、保存への始発駅
そして今、Airporter IIの長い活躍は終焉に差しかかっており、40年以上にわたり、クリーブランドの街と空港を結び続けたこの電車は、まもなく現役の輸送機関から、歴史を語る存在へと立場を変えるのである。
GCRTAの更新計画では、独シーメンス製新型LRVが2027年8月にレッドラインで営業運転を開始する予定であり、東急車輛製Airporter IIは同時期に定期運用を終える見通しとなった。 新型LRVの導入にあわせ、レッドライン各駅ではホーム改修と建築限界・車両限界の見直しも進められ、それらに準拠しない大柄な車体を持つ東急車輛製Airporter IIが再びGCRTAレッドラインを走行する機会は永遠に失われることになる。
だからこそ、いまこの車両を保存することには大きな意味がある。Airporter IIは、日米の友情と技術協力、そして北米市場に挑んだ日本メーカーの栄光と苦闘を、一両の電車で同時に語ることのできる、きわめて稀有な存在だからである。
車両が姿を消せば、失われるのはステンレス製の車体や電装品といった産業遺産だけではない。国際調達に挑んだ技術者たちの仕事、遠い異国で働いた組立工たちの経験、クリーブランド市と空港を結んだ数え切れない利用者の記憶、そして土岐氏とシスラック氏のように、車両を介して育まれた日米の友情や信頼までが、少しずつ忘れられていく。
私たち日米交通歴史協会 (JATHO) が計画する博物館は、日米を結んだ交通史の保存と展示を掲げ、鉄道車両と軽飛行機を重点的な対象としている。可能な限り屋内で保存し、単に車両を展示するだけでなく、それが生まれ、使われ、人々を結んだ背景まで伝えることを目指している。暫定開業時の展示候補には、東急車輛製 Airporter II 電車を明記している。
Airporter IIは、単にアメリカ市場向けに製造された日本製電車ではない。その車両には、日本とアメリカ、両国の鉄道技術と都市交通の思想が確かに息づいている。それは東急車輛の輸出史における重要な一頁であると同時に、日本の通勤・都市鉄道技術が北米の公共交通に残した足跡でもある。2027年に予定される引退は、この車両の物語の終わりではない。むしろその時から、Airporter IIをいかに記憶し、いかに次世代へ遺していくのかが、私たちに問われることになる。アメリカを走った東急電車、Airporter II は、日米の技術、そして国境を越えた友情を乗せて走り続けた。その歴史を未来へ伝えるためにも、Airporter IIは保存されるべき車両である。
