アメリカを走った東急電車 – 前編

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日米を往復したステンレス電車の技術史

迫りくる2027年、アメリカ中西部、オハイオ州クリーブランドで40年以上にわたり走り続けてきた日本製のステンレス電車が、いよいよ世代交代の時を迎えようとしている。

その名は「Airporter II」。クリーブランド広域交通営団 – Greater Cleveland Regional Transit Authority (GCRTA) のレッドラインで、クリーブランド市の中心部とクリーブランド・ホプキンス国際空港を結んできた通勤電車である。1984年の営業運転開始以来、40年以上にわたって活躍してきたこの電車は、中小都市であるクリーブランド市の空港アクセスと都市輸送を支えてきた比較的地味な存在である。華々しい長距離列車や豪華列車でもなければ、技術的に特異な試作列車でもない。だが、その無骨なコルゲートのステンレス車体には、日米両国の鉄道技術史が幾重にも折り重なっている。日本の鉄道車両メーカー各社が鬼門の北米市場に挑戦し、そして散っていった時代の記憶をとどめるとともに、アメリカで生まれたステンレス通勤電車の技術が日本で発展し、再びアメリカへ「里帰り」した、日米鉄道技術交流の歴史を今に伝える証人でもある。

その物語は、1930年代のペンシルベニア州フィラデルフィア市にまでさかのぼる。 

ステンレス電車の父、バッド社

Airpoter IIをはじめとするステンレス電車の背景をたどるには、まずアメリカ鉄道界のかつての名門、バッド社(Budd Company)の歩みから見ておく必要がある。ペンシルベニア州フィラデルフィアで1912年に創業したバッド社は、自動車向け金属加工のパイオニアとして名を広め、1930年代には加工が難しいことで知られるステンレス合金の溶接技術を確立し、数多くの特許を取得した。

そもそもステンレス鋼は、鉄を主成分としてクロムやニッケルをはじめとする元素を加えることで、腐食や錆への耐性を持たせた合金鋼である。発明と実用化が進んだのは1910年代であり、歴史はまだ浅い。鉄の弱点であった錆や腐食を克服した反面、加工が難しく、従来の溶接手法で加熱すると耐食性や美観が著しく損なわれるという欠点があった。 そこでバッド社は、さまざまな条件下でステンレス鋼の接合方法を徹底的に研究し、耐食性を保ちつつ量産にも適した抵抗スポット溶接の方法として「ショット溶接」を確立した。特許によって独占されたこの技術は、従来のリベット接合などに比べ、軽量化、強度、量産性の面で大きな優位を持ち、バッド社にとって決定的な武器となった。

ショット溶接技術を確立したバッド社は、その新技術をさまざまな乗り物へ応用した。従来の主力製品であった鉄道車両はもちろん、海運や航空、そして軍事にも進出し、1931年にはステンレス製飛行艇BB-1パイオニア号を試作して初飛行に成功した。さらに1943年にはアメリカ海軍向けの試作輸送機RB-1コネストガを製造し、第二次大戦期には軍艦向け部品や構造物にも取り組むなど、ステンレス加工の用途を広く模索した。

しかし、ステンレス技術が最も大きく花開いたのは、やはり鉄道分野だった。1934年にデビューした高速・豪華列車「パイオニア・ゼファー号」で一世を風靡した同社は、長距離列車から都市近郊電車に至るまで、20世紀中盤のアメリカのステンレス製鉄道車両を代表するメーカーとなった。波板状のコルゲート外板をまとった銀色の車体は、単なるデザインではない。薄いステンレス板のひずみを目立たせにくくしながら、十分な強度を持った軽量な車体を量産するための技術的な回答であった。 この実績はやがて他国にも、製品の輸出や製造技術のライセンス提供、技術提携という形で波及していく。

バッド社が製造したSEPTA向けM-3形電車―東急7000系の礎となった
© 9151 Creations – CC BY – SA 4.0

一方の日本は、当時、戦後の混乱に揺れていた。そうした時代の中、神奈川県横浜市金沢区の旧帝国海軍工廠跡地に、「東急横浜製作所」が新たな鉄道車両メーカーとして産声を上げた。これは、関東南部の私鉄各社が合併していったかつての「大東急」がGHQ主導で解体され、旧来の東急電鉄の姿に戻ろうとしていた頃のことである。同社は戦争で被災した数多くの電車を修理・復旧する目的で生まれ、その後1953年に「東急車輛製造」へ改名された。

東急車輛は、より歴史のある競合他社に対抗するため、新技術の開発や新市場の開拓に熱心だった。1952年に社長へ就任した吉次利二氏は、1956年に北米・南米へ市場調査と開拓を目的として渡航した。その際に目の当たりにしたのが、バッド社の最新鋭ステンレス車両であった。吉次利二氏は後の座談会で、次のように語っている。

“南米はどこへ行っても「俺たちは米国からこんな立派な車両を買っているんだ。お前たちも乗せてやろう」と言われ、ブラジルではバッド社製のオールステンレス車に乗った。乗ってみたら素晴らしい。PRに行きながら他国の車両に感心してほめほめ乗って歩いた。”
—電気車研究会刊 『鉄道ピクトリアル』通巻696号、67頁

東急車輛はその後、自力でステンレス車両を試作し、東急5200系や6000系として実用化したが、それらは外板にステンレスを利用する一方で、骨組みには従来の鋼鉄を用いる「セミステンレス車」にとどまっていた。しかし、セミステンレス車が完成した頃には、同社はすでにより技術的な難易度が高いオールステンレス車両の実現を目標に据え、バッド社に提携を申し入れている。

バッド社の監修のもとで設計・製造された東急7000系
© Hahifuheho – Public Domain

こうして東急車輛は1958年のバッド社との提携合意を得て、1959年12月15日に正式契約を締結した。1960年にはバッド社の技術者や製造設備、そしてアメリカ製ステンレス鋼部材などを横浜工場に受け入れた。バッド社の指示で横浜工場に新設されたオールステンレス車両専用の生産ラインでは、ショット溶接だけでなく、製図法、部品表作成、材料手配、細部の強度計算など、アメリカ流の鉄道車両製造様式を一から学んだ。その成果として、東急車輛は1962年に日本初のオールステンレス車両である東急7000系を実現した。東急7000系はバッド社の細かな指導・監修の元、アメリカ仕様で作られた電車で、同時期バッド社が製造した南東ペンシルベニア交通局M-3形電車と瓜二つだが、日本のステンレス製電車史における堅実な出発点となった。 その後東急車輛は自主設計のステンレス電車8000系、そして次世代軽量ステンレス車体の開発を手がけることとなる。バッド社が開発したステンレス車体技術は、アメリカから日本へ確かに受け継がれ、そして独自の発展を遂げていったのである。技術的に成熟した東急のステンレス車両技術は、旧国鉄の後押しもあって日本国内の他メーカーにも波及し、やがて「銀色の通勤電車」は日本全国の都市風景そのものとなった。 

空港電車の街、クリーブランド

さて、話をクリーブランドに移そう。広域クリーブランド交通営団 – GCRTA (Greater Cleveland Regional Transit Authority)レッドラインは、1955年に開業した都市高速鉄道であり、1968年にはクリーブランド・ホプキンス国際空港へ延伸した。アメリカ初の本格的な空港連絡鉄道として知られるこの路線では、開業以来活躍してきた鋼製短尺車「Blue Bird」と、空港延伸に伴って投入された比較的新しいプルマン社製の大型ステンレス電車「Airporter」がともに空港アクセスや都市輸送を担っていた。

Airporter IIの調達計画は、古参の「Blue Bird」と、まだ比較的経年の浅かった「Airporter」を一度に置き換え、車種を統一する目的で計画されたものだった。合計60両の調達計画で、その内訳は両運転台車が20両、片運転台車が40両で、車番は前者が181~200、後者が301~340である。したがって、両運転台車を180形、片運転台車を300形とみなすこともできる。両運転台車、片運転台車ともに定員230人で、座席数は両運転台車が80、片運転台車が84とされた。

全車が電動車で、車体にはバッド社から継承されたコルゲート構造のオールステンレス車体を採用した。全長は約23メートル、全幅は約3.1メートルと、日本の在来線より大きく、新幹線より小さいサイズ感だ。軌間は1435ミリの標準軌で、電化方式は架空電車線方式・直流600ボルトだ。最高運転速度は約95キロメートル毎時に達し、北米の中小都市の鉄道はLRTで済まされることも多いなか、Airporter IIは大型で高床式の本格的な都市高速鉄道車両であった。

東急車両製造・横浜製作所構内で試運転するクリーブランド向けAirporter II電車
© 堀川 正弘 – Used with Permission

日本の電車らしさ

日本メーカーの製品とは言え、この車両は、車体、台車、パンタグラフ、制御装置、そして空調装置など、技術的にはアメリカの影響を強く受けた。車体は先述の通り、東急車輛が米バッド社から導入し、日本で発展させたオールステンレス構造とされ、コルゲートに包まれた銀色の車体はまさにアメリカンな印象だ。台車もアメリカでは一般的だが日本では前例の少ない「内軸箱方式」とされた。連邦政府の「バイアメリカン規定」の要求を満たすため、電気機器、ブレーキ装置、空調装置などの主要機器にアメリカ製品が多く使われてた。主制御装置はバッファロー向けLRVで実績のあったウェスティングハウス社のチョッパ制御に当初傾いていたが、現場への配慮として先代車両(プルマン社製Airporter電車)と同様、GE社製の抵抗制御とされた。

当時日本ではコルゲート構造を廃した次世代軽量ステンレス車両、そしてVVVFインバーターによる交流モーター制御の実用化が始まっていた時期であり、そのタイミングでコルゲート構造の抵抗制御車と言う構成は非常に保守的で、古臭い印象も否めない。だが、それは以前大失敗したボーイングLRVの苦い経験を当事者として目の当たりにした東急車輛が、リスクの高いアメリカ市場において保守的で堅実な製品を提供しようとした思惑があったのかもしれない。事実、Airporter II が40年以上も第一線で活躍し、高い信頼性を示した事から、この保守的な設計は正解だったと言える。

Airporter IIのユニークなポイントの一つがアメリカ流の空調装置だ。床下にコンプレッサーとコンデンサーを置き、車体内部の上部両端にエバポレーターを配した分散式空調を採用し、暖房と組み合わせた完全自動制御として設計された。欧米では一般的でも日本ではあまり例のない方式であり、このプロジェクトに携わった土岐實光氏は、「屋根に穴が開かず、外観は大変スマートになった」と回想している。近年の低重心設計の新幹線や特急型電車はともかく、日本の通勤電車・近郊型電車でセパレート式の空調設備を採用し、空調装置の一部を床下に配置した例は、JR西日本の223系1000番台の付随車やJR北海道の731系など、ごく少数にとどまっている。

その一方で、アメリカ由来の技術的な要素以外は、日本の電車という印象が強い。確かにオールステンレス車体は紛れもなくアメリカ発祥だが、その材料となるステンレス自体は日本製のSUS301が使用された。当初GCRTAの仕様書でアメリカ製のSUS201が指定されていたが、東急車輛側の要望で日本製のSUS301が使われている。食パン形の車体断面、左右対称で切妻構造の前面形状、そして片側3扉の両開きドアの配置などは非常に日本らしく、日本の私鉄でそのまま走ってそうな印象だ。アメリカの都市交通電車は、車両の動揺を考慮して車両限界・車体断面が台形な場合が多い一方で、Airporter IIは日本同様、正方形に近い食パン型の車体断面であることも一層「日本らしさ」を強めている。三面折妻のわずかな後退角を持たせた、平面的で無骨なステンレスの前面に、前照灯と尾灯が横並びで配され、その上をラインカラー帯が横切る表情は、旧営団地下鉄5000系の登場時の姿や、同時期に同じく横浜工場で製造されていた東急8090系など、日本の私鉄や地下鉄電車に近い物がある。クリーブランドで走ったこの東急電車は、アメリカ製部品を駆使し、アメリカの都市を走りながらも、その顔つきや第一印象においては紛れもなく日本的だった。

運転台はデスクタイプで、ダッシュボードのデザインは日本の通勤電車とそっくりだ。主制御器は左手操作のワンハンドル・マスコンで、操作方法は日本とは逆で、手前に引くと制動、奥に押すと力行のアメリカ式だ。ワンマン運転時の料金収受に対応するため、客室との間には窓口も設けられた。

Airporter II の運転台の配置には興味深い点がある。アメリカの鉄道車両の運転台は基本的に進行方向右側に配置されている。これは蒸気機関車時代の名残で、右側通行のアメリカにおいて線路の右側に配置される信号機の確認などに適しているからである。初代BART車やメトロノース鉄道M1・M2形電車など、前方確認用の風防を運転台がある右側にのみ配置した左右非対称の鉄道車両すら多数ある。その一方でクリーブランドの Airporter II はアメリカ向けの電車なのにもかかわらず、日本と同様、左側に運転台が配置されている。

日本製の電車だから日本式の運転台配置なのかと思われるかもしれないが、実はそうではない。GCRTAレッドラインは近代的な複線の通勤路線で、ほとんどの駅が島式ホームだ。右側通行の島式ホームでは、列車の進行方向左側がホームに面する。ワンマン運転では運転士がホームの安全確認とドア操作も担うため、左側に運転台を配置すれば、運転士への負担が少ない。つまり、この左運転台は日本式を押し付けたものではなく、クリーブランドの線路・駅設備と運転方式に配慮した設計であり、日本国内の通勤電車と同じ運転台配置に行き着いたのは奇遇である。

車内は空港連絡輸送を意識した広い室内に、FRPを多用した明るい内装と、シンプルで清潔感のあるデザインとされた。通勤電車的な詰め込み発想ではなく、居住性に配慮した構成となっており、座席は2人掛け固定クロスシートを主体とした。中央出入口を境に着席方向を分ける、いわば「集団離反型」とも呼べる配置が採られ、空港利用者に配慮して大形手荷物置場も設けられた。

通常、アメリカ向けの通勤鉄道車両は、大重量貨物列車との万一の衝突を考慮し、FRA(連邦鉄道局)の安全規則や、AAR(米国鉄道協会)の業界基準に準拠した厳しい衝突安全性、車端圧縮荷重への対応が求められる。これに対しGCRTAレッドラインは、外部の一般鉄道網との乗り入れが一切ない完全に独立した「都市鉄道」であり、こうした一般鉄道向けの枠組みとは異なる緩和された衝突安全基準で設計できた。厳しいアメリカの一般鉄道法令に縛られない場面で、日本流の通勤電車の設計手法を流用できたそうだ。

中編では、東急車輛がなぜ北米市場へ挑んだのか、Airporter IIがどのように輸出・現地調達・試運転を経てクリーブランドへ渡ったのか、そして後継車導入によってこの異色の日本製電車がどのような終幕を迎えるのかを追いたい。